死への「まどろみの淵」で聴いたアノ静寂は・・・
「此岸? それとも彼岸?・・・」


発情したウシガエルの求愛の声を聴きながら久し振りに「エロティシズム」を考えてみた。「エロティシズムとは、死に至るまで生を称えることである」ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』は、このあまりにも苛烈な宣言からはじまる。エロティシズムは、美と対極にある動物的行為、つまり性行為において発見できるのだ。美と醜のコントラストが強ければ強いほど、そこに生まれるエロティシズムも強烈なものになる。従来の「美」ばかりを追い求めてきた西洋の考えとは異質なのだ。この対極主義、コントラストの強烈さは、やはり岡本太郎や三島由紀夫にも通じるものです。バタイユがロジェ・カイヨワの持論を紹介した次の言葉は、エロティシズムを端的に表しています。
「人間の時間は俗なる時間と聖なる時間に分かれている。俗なる時間とは通常の時間のことであり、労働の時間、禁止が尊重されている時間のことであり、聖なる時間とは祝祭の時間、すなわち本質的に禁止が侵犯される時間のことなのだ。エロティシズムの次元では、祝祭はしばしば性的放縦の時間になっている。正真正銘の宗教的な次元では、祝祭はとりわけ供犠の時間であり、供犠とは殺人の禁止を侵犯することなのです」
美は主観的なものであり、一般的に語れないと認めたうえで、バタイユは人間の姿について次のように述べます。「どれだけ動物から遠ざかっているかに応じて美しさを判定される」
「ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』」(日本美学研修所)より一部転載
↓オモロナイ
!写真がイマイチ
!・・
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