映画監督、大島渚さんが逝った。日本ヌーヴェルヴァーグ-Wikipedia-の先駈け的存在であったように記憶しているが、単純な映画好きの青二才、ガキであっただけの私には、芸術の新しい波 など知る由もなかったけれど、あの阿部定事件を下敷きにした、ハード・コア-Wikipedia-であるらしいことは知っていたので、とにかく観てみたかった。このハード・コア作品を濃いボカシ越しに観たところで、果たして本当に「観た」と言えるのかどうか……といった懸念はあったけれど、ノーカット上映されているフランスまで出向いてみるほどの熱意や金、それにヒマもなし、三宮の映画館で「愛のコリーダ」をとにかく観た。ボケボケの「ハード・コア」・・・コア抜きのハード・コアなど観られたものではない!コレはサギだ!と想いながらも微かな期待感だけに引っ張られ、結局、最後まで観てしまったけれど、なんとも空虚な気分に囚われ、茶店でコーヒーを飲みながら、しばしボ~ッとしてから帰宅したことだけ憶えている。「コリーダ」はスペイン語で闘牛を意味するらしいが、『愛のコリーダ』では生と死の境界にあればこそ、より光り輝くセックスの美しさを描き、「猥褻で何が悪いのか!」と権力を弾劾した大島渚氏の一喝に強く惹かれたのも確かなのだ。江戸時代は遊女が聖女のように崇められることもあったらしい。性的な魅力を持つことは素晴らしいことと、それなりに評価されたワケなのだ。ところが現代では、性風俗産業従事者は欲望の対象とはなっても尊敬の対象とは決してならず、エロには絶えず疚しさがつきまとう。誇りを持ってエロに携わる人も中には居るけれど、そうした人が政治家や文化人などの権威に祭り上げられることは先ず無いのと、むしろエロに携わったことが傷跡として蔑視されることはある。エロは隠すもの、フタをするモノとして位置づけられているわけなのだ・・・この国にいる限り「愛のコリーダ」ノーカット版を観ることはない・・・と思っていたけれど時代は巡り、今やネット上で、簡単に観ることが可能になっているコトを初めて知るボケ老人・・・時は移ろう。。。
「世の中を常なきものと今そ知る奈良の都のうつろふ見れば」
「わいせつ、なぜ悪い!?」・・・
◆大島渚、その横顔
◆映画 愛のコリーダ - allcinema
◆阿部定事件
◆『愛のコリーダ2000』=くるしいほど好き=
◆『愛のコリーダ』についての藤竜也のインタビュー
2000年(2) - ライプツィヒの夏
◆闇の中の妖精 松田英子(まつだえいこ) / 本番女優の巻
↓ ◆愛のコリーダ(大島渚監督)-アダルト動画-