

「キバナノマツバニンジン」「ハナハマセンブリ」「ハリエンジュ」・・・よく行く里山の麓で見かける外来植物三種。私自身も「外来植物」などと偉そうな口をきいているけれど、外来種の何処がいけなくて、在来種はなぜ悪くないのか・・・外来種にいいところはないのか・・・といったこともよくわからぬまま「外来種」というコトバを使っているように思う。まだ他に、「帰化植物」というコトバもあったりして拘り始めるとややこしい。バブル真っ盛りの頃はといえば、開発一辺倒で山という山には、植林、ショクリンと、右へならえで同じような木を植え、ミドリ豊かな国土になることに何の問題があろうか・・・と。そんな、ミドリ豊かな美しい国ニッポンも、バブルがはじけると手のひらを返すように“自然保護”の大合唱・・タチの悪いハヤリ病の名前かいな?と想うほど、ネコもシャクシも二言目には「エコ、エコ・・・」とのたまうではないか。外来種が繁殖し始めると生態系まで狂ってしまい大変なことになる・・・などと言いながら、挙句の果ては、辺り一帯がそのままで“大自然そのもの”の真っ只中にアジサイを植えて“アジサイロード”などとネーミング、ご親切に設置された立派なベンチにも鳥の糞が落ちているだけで誰も利用した形跡がない。それでも「エコ」と「自然保護」の掛け声は大きくなるばかり


「大自然」は「人間が保護」できるほど甘くはないことぐらいはエロボケ老人にも想像はつく・・・いつの頃からか、この国には
「でんき予報」なるものがテレビの画面に登場するようになった。止まっている原発が動き始めるまではどの電力会社もやるらしい。何処へ行くのか、右へ倣えの国の美しい景色・・・
何処へ行っても同じ花が咲く“美しい国”になるのもそう遠くはないような気がする。気分の滅入りそうな話はこれくらいにして、“昔の人は偉かった”話を・・・現代の「自然保護ブーム」とはチョット違うと想うけれど、南方熊楠(ミナカタ クマグス)こそエコロジストといえる人ではないのか・・・民俗学者でもあり、植物学者でもあった「南方熊楠」はパルモグレアという藻で、空気中の窒素を固体に変える研究をしていたらしい。植物の生育には欠かせない肥料のひとつ“窒素”をただ同然で手に入れようという研究なのだ・・・もしこの研究を成功させていたら化学肥料のない時代、南方熊楠は世界の農業を支配していたに違いない。そして、もし彼が庭師だったらハリエンジュ(ニセアカシア)で窒素を作ろうと考えたに違いない・・・ニセアカシアをはじめとするマメ科の植物の多くは、その根に根瘤バクテリアがつき、その根瘤バクテリアが空気中の窒素を、植物の吸収できる固体にするコトは現代ではよく知られた話なのだけれど、南方熊楠の試みは、生産性とか合理性であるとか、効率優先の、現代では、まるで屁のような話なのかも知れないけれど、“美しい国”の先を暗示する興味深い話ではある。また、南方熊楠についてはこんな話もあったので、抜粋転載させてもらった。
1909年(42歳)、熊楠は『神社合祀(ごうし)反対運動』を開始する。明治政府は国家神道の権威を高める為に、各集落にある神社を1村1社にまとめ、日本書紀など古文書に記載された神だけを残す「神社合祀令」を出した。この結果、和歌山では3700あった神社が強制的に600に合祀(統合)され、三重では5547が942まで激減した。しかもこれにはビジネスの側面もあった。神社の森は樹齢千年という巨木もあり、これが高値で売れたのだ。廃却された境内の森は容赦なく伐採され、ことごとく金に換えられた。
熊楠は激怒した!樹齢を重ねた古木の森にはまだ未解明の苔・粘菌が多く棲み、伐採されると絶滅する恐れがあった。「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に回復し得ぬを小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」。熊楠は“エコロジー(生態学)”という言葉を日本で初めて使い、生物は互いに繋がっており、目に見えない部分で全生命が結ばれていると訴え、生態系を守るという立場から、政府のやり方を糾弾した。
※当時は誰も「生態系」という概念すら持っておらず、熊楠が「日本最初のエコロジスト」と呼ばれる由縁だ。
(南方熊楠の生涯)
◆南方熊楠(みなかたくまぐす・1867~1941)(
田辺の偉人)
◆キバナノマツバニンジン(アマ科 アマ属)(
植物生態研究室(波田研))
◆ハナハマセンブリ (リンドウ科シマセンブリ属)(
花*花*flora)
◆ハリエンジュ(ニセアカシア)(マメ科 ハリエンジュ属)(
植物生態研究室(波田研))
↓オモロナイ
!写真がイマイチ
!・・
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