

連発する猛暑日、老人がコロコロと死んでいく夏はまだ終わりそうにない。二度目の三草山“猛暑日山歩”なのだった・・・“みくさ古道”を登り、昭和池周回コースを歩いた。とにかく暑い!山頂直前のビューポイントでやっと風が吹く・・・生きかえった。心地よい風に吹かれれば、山頂まで行くことの意味を問い、居心地のよさに、つい座り込んでしまう。所詮大した目的などありもしないし、意味などあろうハズもない。風に吹かれながら飲む水は格別なのだった・・・里山の濃い緑を撫でて走る雲の影を見ていたら、自作の迷句
“いずれいく みんないく道 ロージンロード”が口をついて出た・・・幼児虐待から始まった子殺し、親殺し、老人の孤独死から、想い出ボロボロ・・・出るは出るは、多数の所在不明高齢者・・・挙げ句には金のカタにされザックの底やビニール袋の中で、カラコロと寂しげに響く訃音が届いたか、開けてびっくりゴミ袋、文明破壊のオトがする・・・30年前に死亡した男性の遺体が見つかり、戸籍上は111歳、200年前に生まれた人が存命とされていたケースも発覚したという。解体される家族のきずなの象徴なのか・・・歴代戸籍係の怠慢を責めるのは簡単ではあるけれど根はもっと深い。


イマ必要なのは「カネ」というのも解らぬ話ではないけれど“哲学する心”ではないのか?!つまり哲学とは自らのもつ苦と向き合うところから始まり、自身で考えることに他ならず、ロージンは昔からず~っとロージンをやっていたワケではない・・・曲がりなりにも、順序を追ってロージンの域に到達したというワケなのだ。だから「ロージンはすべてエラい!」などと言うつもりもない。イノチ終わる頃が近づけば、金持ちもビンボー人も「老人」という、この世に「オギャー!」と生を受けたときを除いて存在することのなかった領域・・・ビョードーで穏やかな領域であるはずの「死」に到達しつつある存在なのだ・・・としよりをみくびってはいけない。数日前、うたた寝の朦朧とした状態で耳にした
「老猿」というラジオの話が気になり、記憶をを頼りに検索してみたら
高村光雲という明治時代の彫刻家が彫った猿の話で、ワシ(鷲)をつかまえようとして取り逃がした老猿が、手に羽根をにぎりしめたまま、ワシの飛び去った方をにらみつけているのだ。 当時、日露関係が悪化していたときで、ロシア皇室の紋章がワシだったことから話題になったらしい。

画像で見てもその細密描写と迫力には圧倒され、「老猿」というタイトルに惹かれる。まだ実物はお目に掛かったことがないけれど機会があれば、是非とも観てみたいと思う。
「memento mori メメント・モリ」・・・ラテン語で“死を忘れるな” 朝は元気だった者も、夕方には死んで骨になるかもしれない・・・そんな自由がある。もう一度言っておこう、としよりをみくびってはいけない! 俺は出来なくなったことなどないぞ。「見ざる、聞かざる、言わざる」などと恰好つける必要もなくなった。「見ても忘れるし、聞いても忘れる。その上に、どんなことでも理解し難いくらい小難しく難解に話すことが出来るんや・・・」どや!参ったか!?・・・これぞ
「老猿力!」ココにきて凄いパワーを頂戴したもんや・・・。
↓オモロナイ
!写真がイマイチ
!・・
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