アート・ブレイキー&ザ・ジャズメッセンジャーズ チュニジアの夜 Night in Tunisia
危険な関係のブルース / アート・ブレイキー & ジャズ・メッセンジャーズ
Aladdin's cock日かげ いつか月かげとなり 木のかげ・・・山頭火 | |
カテゴリー内エントリ一覧
2019/01/17 連想・・・死刑台のエレベーター
2018/04/25 此岸と彼岸のはなし・・・ 2015/07/13 人間の原型・・・ 2014/08/15 69回目の終戦記念日に・・・ 2014/05/26 幻想・・・ KENjIの春 2014/03/03 夢十夜・・・第一夜・・・ 2013/07/16 「花小説」は麝香の香り・・・ 2013/01/17 「わいせつ、なぜ悪い」・・・それでも、わいせつ!? 2012/07/09 不思議の国のダイアン・・・ 2012/01/13 「さっちん」から「女陰」まで・・・ 2011/08/29 ゆく夏惜しむ碧い空・・・天才放浪画家を想う 2011/08/13 ノスタルジアの向こう・・・サマータイムブルース・・・Love Me Tender 2011/07/16 聴き比べ・・・エアーメール・スペシャル 2011/05/22 野に咲く花のように・・・test・・・a cappella・・・・・in chapel 2011/04/27 花の色はうつりにけりないたづらに... 連想・・・死刑台のエレベーター妄想三連発、馴染みの里山尾根歩き・・・約二年間のブランクを経て「転倒」だけは避けるコトを「絶対条件」に、朝10時から山頂を目指す「耄碌爺のヨタヨタ歩き」を開始した。・・・今は亡き山友、K氏「渾身のプレゼント」と相成ってしまった再生登山道をシッカリと踏み締めながら間違っても許されぬ「転倒」だけは無し。昼食場所に決めていたビューポイントに辿り着いたのが 13:25 分・・・光る播磨灘に眼を奪われながらも 15:31無事、山頂着。ここまでは、なんとか無難にこなしたけれど、派手な夕焼け空に眼を奪われている間に足元は真っ暗・・・これから先は尾根伝いの下り坂が続く、足元の細い登山道のディティールは草や木の陰に重なりほとんど確認は不可能、限りなく危険になったことだけは確かなのだった。昔のある時期に聴き惚れていたアート・ブレーキ讃題にちょいとお耳を拝借、お許しのほど。。。
アート・ブレイキー&ザ・ジャズメッセンジャーズ チュニジアの夜 Night in Tunisia 危険な関係のブルース / アート・ブレイキー & ジャズ・メッセンジャーズ スポンサーサイト
此岸と彼岸のはなし・・・彼岸と此岸についてちょっぴりベンキョウしてみた。彼岸と此岸が結ばれる…
彼岸とは、春分の日秋分の日を挟んだ前後一週間に先祖の供養や墓参りをするのだが、インドなど他の仏教国にはない日本独自の行事であるらしい。仏教では、生死の海を渡って到達する悟りの世界を彼岸といい、私たちがいる迷いや煩悩に満ちた世界を此岸(しがん)と言っている。彼岸は西に、此岸は東にあるとされており、太陽が真東から昇って真西に沈む秋分と春分は、彼岸と此岸がもっとも通じやすくなると考えられ、先祖供養をするようになったと言われている。春の種まきや秋の収穫とも結びつき、自然に対する感謝や祈りが先祖に感謝する気持ちにも繋がっているこの時期、供養を欠かさないようにしたいもの・・・ 三途の川を挟んで、こちら側の世界、此岸 しがん、人間の世界。向こう側の世界を、彼岸 ひがん 仏さんの世界、悟りの世界。彼岸の原点は梵語のパーラミター(波羅蜜多)で、超える、渡る、の意味から到彼岸と訳された。 彼岸の時期に先祖供養をするのは、日本独特のもので、先祖を敬い、亡くなった人々を偲ぶ日なのだ。歴史的には806年(大同元年)に早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるため行われたのが最初といわれている。 暦の上では、「春分の日」と「秋分の日」を中心に前後三日間、合計七日間を指し、前後の三日、計六日は、悟りの世界へ到達するための六種類の修行方法、六波羅蜜 ろくはらみつ に由来しているとか。 また、この時期は「暑さ寒さも彼岸まで」と言うように季節の代わり目で、暑さ寒さの中間点、また昼と夜との時間の長さも同じ時なのだ。極端な考え方を避ける仏教にとっては、供養や修行をするにはふさわしい時期なのだ。彼岸=日願という説もある。 これは太陽信仰からのもので、春分と秋分は昼夜の長さが切り替わる節目の日で重要な日でもあり、日に願うから日願になったとも言われる。 人間の原型・・・ 久しぶりに素晴らしい「写真」にであった。写真家・小林響という名前も初めて知った・・・西部邁ゼミナールの新しいプログラムを探していて出合ったのがコレ、「写真家・小林響が撮った人間の原型」・・・このタイトルに魅入られ、次々と展開される未開部族の人たちの肖像写真・・・ウ~ン参った!ダイアン・アーバスやアービング・ペン、レニ・リーフェンシュタールを彷彿とさせる一連の肖像写真なのだ。どちらかと言えば、アービング・ペンの路線に近いのかも知れないけれど、これらの写真に向き合っていれば、少なくともそんな大雑把な仕分けは完全に拒否される。レニ・リーフェンシュタールほど「貫徹された美の追究」でもなく、かといってダイアン・アーバスは“義眼か?”と想わせるほど特異な美意識の表出でもない・・・タイトルにある通り、「人間という生き物の原型」に徹底して迫った結果の“美”・・・これぞ写真!と言えるのではなかろうか、写真集発刊に際してピーター・ビアードが序文を引き受けたというのもナットク・・・進歩とはナニ?などと耄碌爺、“午後の紅茶”。。。
写真家・小林響が撮った人間の原型1 小林響が撮った人間の原型2 ◆ピーター・ビアード(Peter Beard)プロフィール ◆ダイアン・アーバス(作品とプロフィール 世界の有名写真家・写真集・名言集・動画 YouTube) ◆アーヴィング・ペン(アーヴィング・ペン(Irving Penn)プロフィール) ◆THE NUBA OF KAU(Leni Riefenstahl: THE NUBA OF KAU 1/29) ◆THE NUBA - MASAKIN - QISAR(Leni Riefenstahl: THE NUBA 1/13) ↓オモロナイ!写真がイマイチ!・・click! 69回目の終戦記念日に・・・ 戦争が終わった日・・・国民学校低学年の夏、聴き取りにくい玉音放送が流れた後、大人たちの様子がいつもとは少し違っていた・・・といった程度の記憶しかない。今、改めて「終戦」の記憶を呼び起こしてみるけれど断片的で、田舎のワルガキに理路整然とした“終戦の記憶”などあるワケもなし、69回目の「終戦の日」に「“戦争”という正義」を、耄碌爺なりに、少し学習してみた。
終戦放送 ◆玉音放送=(たむたむ)= といった記述もあり、さすが荷風センセ、先を見通していたのである。それにしても、安倍首相が「積極的平和主義」・・・!?「集団的自衛権」・・・!?「コクミンの生命の安全のため・・・!?」などと、拙いたとえ話を、得意満面に語り始めると、イライラが募り、気分が悪くなる・・・この辺りのコトも少し、終戦の日に絡めてベンキョーしてみた。 ◆ 「積極的平和主義」とは何か=(澤藤統一郎の憲法日記)= ◆安倍さんの「積極的平和主義」とは ~Contributorがクセモノ=(Goodbye! よらしむべし、知らしむべからず )= ◆ 「積極的平和主義は時々戦争そのものになる」 首相のオトモダチが仰天発言= 田中龍作ジャーナル= ここからは「終戦の日」とは何の脈絡もないけれど、自分が襲われた時友人が「ゴメン、争いはしないんだ」と言って助けてくれず、死んでしまうことだ・・・と、なにもせず、オツムに花を挿して歌を歌っていれば平和に貢献していると考えているフラワー・チルドレン・・・とまでもいかないけれど、昨日、妹がやって来て、私の甥っ子(ゲイ)が時々TVに登場して芸(ゲイ)をしているというのでヒマのある人は見てやってください。
↓オモロナイ!写真がイマイチ!・・click! 幻想・・・ KENjIの春◆涙のしずく・・・ヒツジグサの白い花(【Aladdin's cock】)をアップしたら、早速、こんな書き込み=◆No.2548.秋の月 > ヒツジクサ(あしアト do_On!)=を頂戴し、歌が添えられていた。
山間のため池に着いたのが丁度、午後の2時(未の刻)・・・池の縁に寄せられたヒツジグサの葉と、ツボミからやや開きかけた花。その数はまだ少なく縁に沿ってポツリ、ポツリ・・・それにしても今年の開花は早い。あたりの山の景色も一変し、すでに“夏もよう”。水面に映る里山の「夏景色」に魅入られ、眼でなぞっていたらヒツジグサの花・・・「Tearful Eye 涙ぐむ眼」の涙・・・が開いている。少しずつではあるが、開いていくのが眼で確認できるのだった。水面に出た遠くにある花、そして目の前にある花まで、刻一刻と開花に向けて動き、観ている前で、一斉に花開いてしまったのだった・・・なんと、素晴らしい光景・・・か! 「Tearful Eye 」の涙が光り輝く瞬間・・・まさに涙ぐむ眼の「光る涙」をマ(目)のあたりにしたワケで。。。 「イーハトーブ」とは宮沢賢治による造語で、自身の心象世界の中にある理想郷を指す言葉であるらしい。「花壇工作」は詩人である宮沢賢治の短編。病院の中庭に花壇を作ることになった富沢先生は、設計図も持たずに現場へ行き、それに自身の創造力には充分な自信があった。まさしく音楽を図形に直すことは自由であるし、そこへ花で「 Beethoven の Fantasy」 を描くこともできる・・・そう考えた。宮沢賢治のノート「MEMO FLORA (メモ・フローラ)」には彼が構想した八つの花壇計画が記録されているのだ。大正15年と昭和5年にも使用していたというノートなのだが、その中の、№5が「涙ぐんだ眼」という花壇で、眼の図像を空間に描いた「tearful eye」(涙ぐんだ眼)はスケッチ風の設計図だけしか残っていなかったのだが、昭和 54年に盛岡少年院に花壇が造られたという話もある。いずれにせよ、天才の発想と想像力の豊かさには驚くばかり・・・。 ◆イーハトーブ( Wikipedia) Leonard Bernstein "Choral - Fantasy" Beethoven ◆イーハトーブ幻想・KENjIの春 Wikipedia 画面上部を走るコメントを消すには右下の[…]をクリック[×]にする。ココ↑ ↓オモロナイ!写真がイマイチ!・・click! 夢十夜・・・第一夜・・・ 身体の動きが鈍くなってから久しい・・・ネタ切れblogは連日無残な姿を晒し続けている。退屈しのぎにブラインドタッチの練習を兼ね、夏目漱石の「夢十夜(第一夜)」を打ち込んでみた。『こんな夢を見た。』で始まる・・・夏目漱石には珍しい“幻想文学”・・・YouTubeには朗読まであった。
夢十夜 (第一夜) 夏目漱石 (朗読:日高恵 松浦このみ) こんな夢を見た。 腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。自分もこれは確かに死ぬなと思ったそこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いてみた。死にますとも、と言いながら、女はばっちりと目を開けた。大きな潤いのある目で、長い睫に包まれたなかは、ただ一面に真黒であった。その真黒な瞳の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。 自分は透き通るほど深く見えるこの黒目の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い目を眠そうに見張ったまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと言った。 じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと。にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組みをしながら、どうしても死ぬのかなと思った。 しばらくして女がまたこう言った。 「死んだら、埋めてください。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちてくる星の破片を墓標に置いてください。そうして墓の傍に待っていてください。また逢いに来ますから」 自分はいつ逢いに来るかねと聞いた。「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そしてまた沈むでしょう。ー赤い日が東から西へ、東から西へと落ちてゆくうちに、―あなた、待っていられますか」 自分は黙って首肯いた。女は静かな調子を一段張り上げて、 「百年待っていてください」と思い切った声で言った。 「百年、私の墓の傍に坐って待っていてください。きっと逢いに来ますから」 自分はただ待っていると答えた。すると、黒い瞳のなかにあざやかに見えた自分の姿が、ぼうっと崩れてきた。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の目がぱちりと閉じた。長い睫のあいだから涙が頬へ垂れた。―もう死んでいた。 「自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った真珠貝は大きな滑らかな縁の鋭い貝であった土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿った土の匂いもした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。」 それから星の破片の落ちたのを拾ってきて、かろく土の上へ乗せた。星の短片は丸かった。長いあいだ大空を落ちている間に、角が取れて滑らかになったのだろうと思った。抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖かくなった。 自分は苔の上に坐った。これから百年の間こうして待ってるんだなと考えながら、腕組みをして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女のいったとおり日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の言ったとおり、やがて西へ落ちた。赤いまんまでそっと落ちていった。一つと自分は勘定した。 しばらくするとまた韓紅の天道がのそりと上がってきた。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。自分はこういうふうに一つ二つと勘定していくうちに、赤い日をいくつ見たか分からない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越していった。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に騙されたのではなかろうかと思いだした。 すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びてきた。見る間に長くなってちょうど自分の胸の辺りまで来て留まった。と思うと、すらりと揺らぐ茎の頂に、こころもち首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に応えるほど匂った。そこへはるかの上から、ぽたりと露が落ちたので、草は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花びらに接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。 『百年はもう来ていたんだな』とこのとき初めて気がついた。 ↓オモロナイ!写真がイマイチ!・・click! 「花小説」は麝香の香り・・・ 久しぶりに、西脇市の岡之山美術館へゲージツ観賞に出かけてきた。開館以来、二十数
年、地元出身の美術家横尾忠則氏の個展を開いてきたが、神戸市灘区に昨秋開館した、 横尾忠則現代美術館へ作品展示の軸を移したことに伴う方向転換ということで、今回から 横尾さんと交流のある作家らの現代美術展に企画を変更することになったらしい。そのイッパツ目にあのアラーキー氏による「花小説・荒木経惟展」と言うことになったのだ。荒木氏とは代官山のギャラリーで会って以来、もう十数年会っていないコトになる。この間の荒木氏のバクハツぶりには凄まじいモノがあり、あの岡本太郎氏もブッ飛んでしまうのではないかとさえ想わせるようなパワーがある。約40年前に“さんちかの古本市”で気になるので買った季刊誌「血と薔薇」・・・三冊を束ねて無造作に並べられていた本・・・創刊~3号で廃刊になってしまったらしいが、澁澤龍彦責任編集・エロティシズムと残酷の綜合研究誌と銘打ち、「エロティシズムとは、死にまで高められた生の賛美である=ジョルジュ・バタイユ=」と歌い上げた「血と薔薇」には写真家として篠山紀信「聖セバスチャンの殉教」「制服の処女」、立木義浩「鍵のかかる女」、東松照明「楽屋」などの名前や写真が出てくるけれど、こと、「エロスやタナトス」といった意識や観念の表現ともなれば消化不良を起こし、いずれも深みに欠け青臭い。あの時代から約半世紀、表現技法の進化など、表現のバリエーションには格段の差があるとしても「花小説・荒木経惟展」は、これらを遙かに凌ぐモノがあり、一見の価値はある。「ご無沙汰しています。お元気でなにより・・・」と挨拶を交わせるいい機会でもあったけれど、生憎、オープニングの日(14日)は、コチラの都合で伺うことができず、15日(月)に写友M氏、N氏の二人に会い、旧交をあたためつつ、「花小説」を観賞・・・茶店で写真から墓場まで・・・こちらはコチラで老人パワー炸裂!!挙げ句の果てに“オキクムシ”を飼っているというM氏宅へ回り道、降り出した雨の中で食草である「ウマノスズクサ」を、あっと言う間に食い尽くしていくジャコウアゲハの幼虫を激写!M氏によれば、オキクムシはジャコウアゲハのさなぎということで、枝からぶら下がる姿が、縛られつり下げられたお菊さん(番町皿屋敷)を連想させることから、そう呼ばれるようになったと言われている。お菊井戸の周辺に食草のウマノスズクサが繁っていたのだろうか・・・毒のこと、臭いの目的や機能と、どうもジャコウアゲハの「麝香」には人間の怨念や情念を呼び起こすような響きがあり、さしずめ魔女の蝶といったところか。後日談ではあるけれど、14日(日)のオープニングの日も会場に来たというN氏が、雑誌で見覚えのある女性が外にいるので、声を掛けたら、荒木氏の只一人の弟子の野村佐紀子さんで弟子入り直後に大阪で、代官山のギャラリーでも会っているが、約20年ぶり「Tokiraさんはお元気ですか?」と尋ねられ、名刺ももらったのでウチへ電話をくれたらしいが、私はユウスゲとグンバイトンボを観に出かけて不在を伝えたら、「前日(13日)から西脇市に来ていたのに・・・」と残念がられたとか・・・「ご無沙汰しています。お元気そうで・・・」と挨拶ぐらいは交わせたのに・・・チョット、マメさに欠けたようで。ネットで野村佐紀子さんを検索してみたら、見事に一本立ちしてるようで・・・ごリッパ!嬉しいことです。 ◆広がるアラーキーの世界 西脇市で企画展開幕 ◆澁澤龍彦・責任編集(創刊号~第3号)「血と薔薇」=(雑誌「血と薔薇」)= ◆野村佐紀子 - デジカメWatch ◆「麝香」媚薬と官能の香り=(ザ・においクラブ)= ↓オモロナイ!写真がイマイチ!・・click! 「わいせつ、なぜ悪い」・・・それでも、わいせつ!?映画監督、大島渚さんが逝った。日本ヌーヴェルヴァーグ-Wikipedia-の先駈け的存在であったように記憶しているが、単純な映画好きの青二才、ガキであっただけの私には、芸術の新しい波 など知る由もなかったけれど、あの阿部定事件を下敷きにした、ハード・コア-Wikipedia-であるらしいことは知っていたので、とにかく観てみたかった。このハード・コア作品を濃いボカシ越しに観たところで、果たして本当に「観た」と言えるのかどうか……といった懸念はあったけれど、ノーカット上映されているフランスまで出向いてみるほどの熱意や金、それにヒマもなし、三宮の映画館で「愛のコリーダ」をとにかく観た。ボケボケの「ハード・コア」・・・コア抜きのハード・コアなど観られたものではない!コレはサギだ!と想いながらも微かな期待感だけに引っ張られ、結局、最後まで観てしまったけれど、なんとも空虚な気分に囚われ、茶店でコーヒーを飲みながら、しばしボ~ッとしてから帰宅したことだけ憶えている。「コリーダ」はスペイン語で闘牛を意味するらしいが、『愛のコリーダ』では生と死の境界にあればこそ、より光り輝くセックスの美しさを描き、「猥褻で何が悪いのか!」と権力を弾劾した大島渚氏の一喝に強く惹かれたのも確かなのだ。江戸時代は遊女が聖女のように崇められることもあったらしい。性的な魅力を持つことは素晴らしいことと、それなりに評価されたワケなのだ。ところが現代では、性風俗産業従事者は欲望の対象とはなっても尊敬の対象とは決してならず、エロには絶えず疚しさがつきまとう。誇りを持ってエロに携わる人も中には居るけれど、そうした人が政治家や文化人などの権威に祭り上げられることは先ず無いのと、むしろエロに携わったことが傷跡として蔑視されることはある。エロは隠すもの、フタをするモノとして位置づけられているわけなのだ・・・この国にいる限り「愛のコリーダ」ノーカット版を観ることはない・・・と思っていたけれど時代は巡り、今やネット上で、簡単に観ることが可能になっているコトを初めて知るボケ老人・・・時は移ろう。。。
「世の中を常なきものと今そ知る奈良の都のうつろふ見れば」 「わいせつ、なぜ悪い!?」・・・ ◆大島渚、その横顔 ◆映画 愛のコリーダ - allcinema ◆阿部定事件 ◆『愛のコリーダ2000』=くるしいほど好き= ◆『愛のコリーダ』についての藤竜也のインタビュー 2000年(2) - ライプツィヒの夏 ◆闇の中の妖精 松田英子(まつだえいこ) / 本番女優の巻 ↓ ◆愛のコリーダ(大島渚監督)-アダルト動画- 不思議の国のダイアン・・・ 「異形の誘惑」などと格好を付けたフレーズを弄んでいたら、1971年に自殺したアメリカの女
性写真家“ダイアン・アーバス”が、「毛皮のエロス」~ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト~といったタイトルで映画になっていたらしいのだが・・・全く知らなかった。映画の解説などを少し読んでみたけれど事実に基づいたアーバスとは少し違うようだった。アーバスと言えば、1973年6月に東京・池袋の西武デパート特設会場で開催された「ダイアン・アーバス写真展」を何を差し置いてもといった風で観に出かけた。当時、かなり話題を呼び観客も相当動員したのではなかったかと想う。会場で買った写真展の図録(¥2,000.-)を探し本棚から引っ張り出したけれど、当時から、かなり過激に観ていたのでその草臥れ具合にも年季が入っている。中身は“異形の人たち”の 写真が約80点・・・何れの写真も不思議なパワーで惹き込まれてしまうのです。これらの中にヌーディストキャンプで撮影された数枚の写真には局部に黒インクで無神経にも「■ マーク」が刷り込まれていて、時代掛かった“検閲マーク”が目障りで気に入らず、バターを少し載せては軽く、優しく「■ マーク」を撫で続け、摺り消したのを思い出した。今想えば、夜、布団に入ってからシコシコと裸の男女の股間にバターを擦り込み、本を傷めないように、黒インクを少しずつ消していく・・・気の遠くなるような暗い作業・・・この写真集にこそ、股間にインクの前張りなど無用なのだった。かつて、小泉・竹中路線で盛んに煽り立てた“新自由主義”という革新的?な思想には欠かせない・・・ 人間が単なるDNAの集合体であるという考え方や、そこから、他に比べても劣る遺伝子を持つ人間は存在価値がない・・・といった優生学的価値観にも繋がり兼ねず・・・ダイアン・アーバスは、文字通り“異形の人たち”の誘惑に乗ってしまったのだろうか・・・しかし、こんな記述もあった・・・レスリー・フィードラーの『フリークス』の第5章「美女と野獣――醜さのエロス」は、こんな文章で始まる。「あらゆるフリークは、程度の差こそあれ、いずれもエロティックなものとして受け止められている。実際、異常性は一部の「ノーマルな」人間のうちに、この究極の他者をただ眺めるだけではなく全的な肉体感覚において「知りたい」という誘惑を引き起こすのである」・・・と。また、映画の中 のダイアン・・・「不思議の国のダイアン」は「成長することをテーマとするこのお気に入りの本を、彼女は大人になっても何度も読みかえし、謎々を暗記し、無限につづく異常なものたちの王国をそらんじていた」。「アリスのように、ダイアンはいつも疑問を抱いていた。何が正常なのか? 何が異常なのか? 何が動物的で何が人間的なのか? 何が本当で、何が見せかけなのか? ダイアンにはまったく確信が持てなかった」・・・のだった。とにかく、ことあるごとに物議を醸す凄い写真展や写真集であることに間違いない。なによりこの写真展をコーディネートしたのは「カメラ毎日」の編集長でもあった山岸章二氏である。当時のエロボケ爺は、山岸章二氏の難解な文章をなんとしても読み砕かなくては「取り残される・・・」といった強迫観念に取り憑かれていたように想う。しかし、山岸章二氏も6年後の1979年7月20日に事務所で自殺している。 ◆ダイアン・アーバスを読む試み ◆ダイアン・アーバス:ヒューマニストかそれとも覗き見趣味か(:MikSの浅横日記:) ◆ダイアン・アーバス(Diane Arbus)プロフィール ◆ 写真が熱かった時代 『カメラ毎日』と山岸章二(3) (【コラム】Photologue - 飯沢耕太郎の写真談話 (34) マイナビニュース) ◆ダイアン・アーバス作品集1973年6月(本のとびら:adv.yomiuri) ◆「ヘア」と「耽溺」と「裏切り」の誘惑、「毛皮のエロス」(アメリカ/2006年) ( - 読書と映画をめぐるプロムナード) ◆フリークス (映画)( Wikipedia) ◆フリークス(マニア)(- Wikipedia) ↓オモロナイ!写真がイマイチ!・・click! 「さっちん」から「女陰」まで・・・ 年明けの神戸市北区から三木市志染町界隈をドライブしていたら、田んぼの中で凧揚げに興ずる元気なお爺さんと孫たちに出くわした。現在では殆ど見かけることもなくなってしまった光景に、吸い寄せられるように畦道を這い、数枚の写真を撮らせて貰ったのだけれど、弟らしき男の子がコレでどうだッ?・・・とカメラに向ける執拗なポーズについ、ついシャッターを切らされてしまう・・・のどかな現代農村の正月景色。高く上がった連凧は和凧ではなく“カイト”と呼ばれる洋凧なのだった。如何に時代が移り、環境が変わっても、遊びに熱中する子ども達のバイタリティには圧倒されるばかり・・・。久しく触れることもなかったニッポンの正月景色に“気分は昭和”と弾む心で近くにあった御坂神社の境内を巡っていたら「女陰の祀(マツリ)『賽銭箱』」と書かれた箱が目に止まり、その向こうにしめ縄を掛けられた岩が立ち、なにやら意味ありげではあった。チョッピリ調べてみたら「淫祠(いんし)」と言う、いかがわしい神を祀ること、またはそのような施設・・・などと解説があり、そして、あの永井荷風センセは、その「馬鹿々々しい処」にこそ「一種物哀れなやうな妙な心持のする処がある」と言うのである。そして、それだから「いつも限りなく私の心を慰める」のだとも言い、「裏町の風景に或趣を添へる上から云つて淫祠は遥に銅像以上の審美的価値がある」とまで言うのである・・・さすが永井荷風センセの話には興味は尽きることがない・・・こんな話を読んだ日に、アラーキー氏の「安吾賞」受賞を知り嬉しくなってしまうのだった。三十数年来の知人であり、「さっちん」の太陽賞以降、無冠の天才カマラマン荒木経惟氏(アラーキー)に「安吾賞」とは・・・ベストマッチではないか!こんな賞があったことも初めて知った。「さっちん」から「女陰」まで、下町人生の深さに感服しきり・・・春が来たらしい。
◆アラーキーの大きさ・安吾賞レセプション (アイアンブルーの空の彼方へ) ◆「安吾賞」(新潟市 - 安吾賞 -Ango Awards-) ◆安吾の肖像( 安吾の肖像) ↓オモロナイ!写真がイマイチ!・・click! ゆく夏惜しむ碧い空・・・天才放浪画家を想う 8月も終盤、駆け込みで「放浪の天才画家 山下 清展」を観に出かけた。テレビや映画でお馴染みになっているので、名前はよく知っていて
も、その作品については、代表作「長岡の花火」や「桜島」などの貼絵が記憶に残っている程度で、詳しいことはあまり知らない・・・貼絵のほか、晩年のペン画や水彩画、皿に絵付けを施した陶器など、それに施設を飛び出し放浪を繰り返す度に書くことを義務づけられていた“放浪記ノート”なども展示され、作品の素晴らしさもさることながら“山下清という人”への興味は尽きることなく、ボクトツで素朴な、その言動の数々、「素」の圧倒的なパワーにうちのめされることもしばしば・・・山下清の文章には句読点がない。そのわけは“人と話をするときは点やマルとはいわないんだな”とは本人の弁。施設を抜け出しては放浪を繰り返し、繰り返す度に記憶をもとにノートに記し、テレビドラマや映画などでは、旅先で絵を描く姿が紹介されているけれど、実際には数カ月から数年の旅から帰った後、記憶に刻んだイメージを基に創作していたといわれている。右の画像は繰り返す放浪のアト施設の学園長宛に書いた句読点ナシの反省文・・・始末書?も、お見事と言うほか無い。また、海で溺れかけたときの文章には、よくある、悟りきった風の詩人や僧たちの、解った風な当たり前過ぎる語録や説法には及びもつかぬ圧倒的な「素のパワー」を感じてしまう。 まだこの他に裸で千円札を持っていたら警察に連れて行かれ警察官に虐められた話なども会場には書かれていたけれどカタログ図版には省かれていた。映画「裸の大将」など知名度が上がるにつれ洗練されていったのか?映画の中の自分とのギャップも感じていたようでデフォルメされた姿を快くは思っていなかったようである。 ヨーロッパ旅行の際にも山下清はこんなコトを言っている・・・「墓の絵はなんべんも描いたな 横浜では外人墓地を描いたし フランスでもゴッホの墓を描いたな ゴッホの墓のそばにもっといい墓がたくさんあったのに周りの人がどうしてもゴッホの墓がいいって言うから 暑いのをがまんして描いたな みんな墓におまいりにいくけど 死んだ人にわかるかな 死んだことのない人が死んだ人のことがわかるかな ぼくは墓のあるところがしいんとしてるとこが好きなんだ」“放浪する天才画家の作品”は、今や、完全に独り歩きを始めたようで「素」でしか生きられなかった天才画家「山下清」に・・・缶チュ~ゥハイッ!! ↓オモロナイ!写真がイマイチ!・・click! ノスタルジアの向こう・・・サマータイムブルース・・・Love Me Tenderこの曲を20年以上前に歌っていた清志郎・・・ 2009年5月2日没(58歳) ◆忌野清志郎( Wikipedia) 終戦記念日を明日に控え、盆の“墓守バカ”にも少しヒマができた・・・20年くらい前に、「サマー・タイム・ブルース」と「ラヴ・ミー・テンダー」の歌詞の内容が反原発のため、親会社が原発製造に携わっている東芝EMIが、発売禁止を決定したという曰く付きの歌詞をもう一度じっくりと鑑賞し、原子力について考えてみるのも悪くはない・・・エロボケ老人が“インテリ老人”に見えたりするかも知れない・・・などと、浅はかなことを想いながらヒマに任せてシコシコと2曲の歌詞を書き写してみた。あらためてこうして見ると、忌野清志郎という人は、やはり天才なのだった。 ◆忌野清志郎 歌詞一覧(129件)
↓オモロナイ!写真がイマイチ!・・click! 野に咲く花のように・・・test・・・a cappella・・・・・in chapel花の色はうつりにけりないたづらに...夜曲 作詞・作曲: 中島みゆき/編曲:松任谷正隆 街に流れる歌を聴いたら 気づいて 私の声に気づいて 夜にさざめく 灯りの中で 遙かにみつめつづける瞳に気づいて ★ あなたにあてて 私はいつも 歌っているのよ いつまでも 悲しい歌も 愛しい歌も みんなあなたのことを歌っているのよ 街に流れる歌を聴いたら どこかで少しだけ私を思い出して ★ 月の光が 肩に冷たい夜には 祈りながら歌うのよ 深夜ラジオのかすかな歌が あなたの肩を包みこんでくれるように あなたは今も 私の夢を 見てくれることがあるかしら 悲しい歌も 愛しい歌も みんなあなたのことを歌っているのよ 月の光が 肩に冷たい夜には せめてあなたのそばへ流れたい 街に流れる歌を聴いたら 気づいて 私の声に気づいて 心かくした灯の中で 死ぬまで 贈りつづける歌を受けとめて ★ Repeat 思い出して ↓オモロナイ!写真がイマイチ!・・click! |
Profile
Author:Tokira Link list
CategoryArcives
ページアクセス・ランキングブログ内検索RSSフィード |
|